「哲学対話」なるものをご存知でしょうか?
教育の場で、いきなり「哲学」と聞くと、面食らうかもしれません。
じつは今、哲学の大切さが見直され始めており、教育現場にもその実践が求められています。
どうして哲学が教育に必要なのでしょうか?
また、「哲学対話」とは聞き慣れない言葉ですが、どのような対話のことを指すのでしょうか?
ここでは、子どもの教育における「哲学対話」のメリットや、教育現場での取り組み、家族間の会話でできることなどについて紹介します。
新しい必修科目「公共」とは?
2022年度より新学習指導要領に基づき、高校の公民科で従来の「現代社会」に代わってスタートする新しい必修科目が「公共」です。
新科目「公共」は、生徒が近い将来に社会に参画して様々な課題と向き合ったときに、課題を自ら解決する力を養うことを目的としたものです。
「公共」が導入された大きなポイントとしては、近年、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられた法制度の改正があります。
それによって、高校3年生も選挙権を有し、責任を持つ大人になったため、然るべき学校教育が必要になりました。
具体的には、知識の習得を目的とする座学主体ではなく、グループワークやディベートなど様々なアクティブ・ラーニングの手法を通して、ひとりひとりの考える力を育む授業が「公共」で行われます。
小中学校ではすでにグループワークなどのアクティブ・ラーニングが定着しつつあり、「公共」はその流れを受け継ぐ科目になると見込まれています。
多岐にわたる現代社会の問題を扱ううえでは、決して一つの「正解」を導き出せる問題ばかりではありません。
従来の科目と異なり、「公共」が目指すのはただ一つの正解を求めるのではなく、複数ある答えの背景を読み解くことです。
複雑化する状況で正しい答えにたどり着くには、思考力・判断力・応用力・柔軟性など、多くの能力やスキルが要求されます。
未知の問題に対応できる種々の能力を養うことが「公共」が導入された目的です。
「公共」における「哲学対話」とは?
「公共」の授業で行われるのが、「哲学対話」という新たな取り組みです。
「哲学対話」とは、参加者が輪になって問いを出し合い、一緒に考えを深めていく対話の手法です。
フランス発の「哲学カフェ」や、アメリカの哲学者マシュー・リップマンが独自の哲学教材を作り、公立小学校で対話型授業を行った「子どものための哲学」などが始まりとされます。
リップマンは当時盛んだった学生運動をみて、「哲学的な批判的思考」を早い段階で教えるべきだと考えました。
そして1960年代末以降、世界各地の教育現場に取り組みが広がっていきました。
公共性を考える「哲学対話」の内容は、既存の科目では「道徳」や「倫理」に近いといえます。
奥深いテーマを扱う哲学
「道徳」「倫理」は、目標設定・規則・思いやりの心など、学校や社会であるべき心構えや、守るべきルール・マナーなどを学ぶ科目です。
それに対し、「哲学」は重複する部分もありますが、その範囲は広いものです。
というのも、「どう生きるべきか」「正義とは何か」「国家はどうあるべきか」といったテーマが含まれるからです。
これらのテーマはシンプルながら抽象的で奥深く、大人でも正解を簡単に出せないような難題です。
「哲学対話」では、そうした「哲学」のテーマを題材に、対話を通して参加者が学びや気づきを得ることを目指します。
10年ほど前に書籍やテレビ番組で流行した、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義を思い出してもらえるとイメージしやすいと思います。
従来型の教育でも、子どもたち同士が意見を出し合った結果、教師が生徒に正解を示すタイプの授業はありました。
「哲学対話」でも一方的に答えを与えるのではなく、参加する生徒が主体的に答えを見つけ出す形で進めていくのが大きな特徴です。
哲学対話の必要性
どうして、哲学対話の方法が重視されるようになったのでしょうか?
これまでの社会ではある程度、解かれるべき問題の目星がついていました。
そのため、「問題の解決法を探り、正解を導き出すこと」が求められていたのです。
ところが、今では国際化や専門化が進むにつれ、考え方が多様化し、価値観が複雑化しました。
さまざまな分野において、過去の常識が通用しなくなっており、正解を見つけ出すことがますます難しくなっています。
そもそも、「何が問題となっているのか」すら分からないことも少なくありません。
近年のSDGsと呼ばれる地球環境問題ひとつとっても、立場によって全く見方が異なるため、人によって正解が変わってしまいます。
どの課題をどのように解決すれば、より多くの人々が満足する状況になるのか、見当がつきにくい状況です。
このような事態を解決し、状況を打開するために哲学は大変有用です。
「問いそのもの」が間違っていることは往々にしてあるからです。
哲学は、問いの「答え」ではなく、解くべき「問い」そのものを与えてくれます。
問題解決ではなく、正しい問題発見のために不可欠なのが哲学なのです。
哲学対話のルール
哲学対話は、普段の会話のように「どんな話し方をしてもよい」という問答無用のものではありません。
哲学対話を円滑に進めるために、以下のルールが定められています。
- 何を発言してもよい
- 他者が発言したことに対して否定的な態度をとらない
- 発言せず、ただ聞いているだけでもよい
- お互いに問いかけるようにする
- 知識ではなく、自分の経験に即して話す
- 話がまとまらなくてもよい
- 意見が変わってもよい
- 分からなくてもよい
端的にいえば、これらのルールの目的は、対話をできる限り「生産的・建設的」「インタラクティブ」なものにすることです。
「議論下手」としばしば指摘されるとおり、日本人は実りのある対話が苦手で、客観的な議論を進めようとしても、得てしてつまらないものになりがちです。
個人的な愚痴や不満から発展せず、攻撃的で議論にならなかったり、知識のひけらかしであったり、やたらと首尾一貫性を求めたり、無理やり発言を促したり、何かを提案してもすぐに否定やツッコミを入れたりするところがあります。
度を超えた完璧主義な側面がありながら、他方ではインタラクティブ性に欠けるともいえます。
日本語特有の曖昧な言語性にも一因があるでしょう。
そうではなく、参加者からできるだけ発展性や創造性のある意見やアイディアを集め、丁寧に対話を進めることが大切です。
有益な議論にするために、先に挙げたルールを遵守しましょう。
哲学対話の進め方とコツ
では、授業や家庭で「哲学対話」を実施するには、具体的にどのように進めればよいのでしょうか?
まず、参加する子どもの年齢に区切りはありません。
中~高生に限らず、小学生や4歳の未就学児でさえ「哲学対話」は可能です。
適切なテーマを選べば、それぞれの発達年齢に応じた問答ができるからです。
実例によると、適正人数は10~15名、多くて20名程度が望ましいとされます。
1クラス40名の場合、クラスを2つに分けて実施するのが良いでしょう。
時間は1コマ80分の授業で行われるため、大学の講義やゼミをイメージするとよいでしょう。
方法としては、「コミュニティボール」という手製のボールを持ち、車座になります。
話者がボールを手に持ち、発言が終わったら挙手している人にボールを投げ渡す、という風にして対話を順に進めていきます。
ファシリテーターの役割
また、重要な役割として、対話を促すファシリテーターを設定します(家庭では親、学校では教師がよいでしょう)。
ファシリテーターは子どもの話が長すぎたり、脇道にそれたり、ルールを守っていないことを的確に指摘して、円滑な対話を進めます。
「参加者が安心して話せる場を作る」ことが務めです。
つい答えを口にしたくなる気持ちを抑え、子どもの問いかけを丁寧にキャッチし、探求を一緒に楽しむことが肝心です。
子どもたちが問いたいことを一緒に面白がって考え、自分も疑問や考えを出し合うような姿勢 で臨みましょう。
大人自身にとっても、普段考えもしない観点が飛び出し、気づきを得られることでしょう。
ファシリテーターは最低限のモラルや常識があれば務まりますが、できれば議論を俯瞰すべく、哲学的な知識や議論の進め方を熟知しているとベターです。
「百聞は一見に如かず」ですので、哲学対話の実際のイメージをつかみたい方は、巷で行われている「哲学カフェ」の催しに一度参加してみるとよいでしょう。
哲学対話の注意点
教育現場で「哲学対話」を実践するには、他にも注意すべき点があります。
それは、守るべきルールの中に「知識ではなく、自分の経験に即して話す」がある点です。
これは、必ずしも知識が十分でなくても、誰でも平等に対話に参加できることを示し、子どもたち全員に参加を促すものです。
ただし、子どもたちはまだ若いため、テーマによっては関連する経験さえ十分にない場合もあるでしょう。
そうならないように、子どもたちの年齢や発達具合に応じた適切なテーマを設定することが大事です。
経験が不十分な場合は、逆に、学びによる知識を活用する手もあります。
知識と経験のどちらを重視するかを見定めたうえで、テーマに沿った対話を進めてください。
哲学の父・ソクラテス
「哲学対話」というからには、やはり哲学者の対話が参考になります。
哲学者といえば、名高いのは古代ギリシャのソクラテスです。
弟子のプラトンはソクラテスの対話集を編み、後世の西洋哲学・思想・文化に多大な影響を与えました。
ソクラテスはどのように議論を進めたのでしょうか?
ソクラテスは議論の相手が何かを言うと、必ず次なる問いを投げかけました。
次々に問いを浴びせることで、相手の知識の曖昧さや矛盾を指摘し、「何が本当の問題なのか?」を明るみにするのです。
単なる”論破”を目的とせず、自分の考えを生み出すために行うソクラテスの対話法は“産婆術”と呼ばれます。
あたかも、赤ん坊をお腹の中から取り出すように「無知の者同士が話し合っているうちに新しい知を生み出す」のです。
“産婆術”では、たとえば以下のような問答が続きます。
ソクラテス:本当の友人とは何か?
A:似た者同士のことです。
ソクラテス:では、互いに相手を傷つけ合う「似た者同士」は友人か?
A:傷つけ合うのは友人ではありません。
ソクラテス:では、似た者同士は友人ではない。本当の友人とは何か?
A:…絆で結ばれた者です。
こんな具合で問答を進めるうちに、「本当の友人」について正しい答えに近づくことができるわけです。
ソクラテスには”無知の知”という有名な言葉もあります。
「自分が何も知らないこと」を自覚して初めて知識の大切さに気づくことが、考えることの第一歩につながるというわけです。
哲学と教育の関係
哲学と教育には、歴史的にも深い関係があります。
18世紀フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』を著したことで有名ですが、子どもの教育書『エミール』の著者としても知られています。
ルソーは、当時の哲学者ロック、マールブランシュ、ライプニッツ、デカルトなどの影響を受けました。
そして、同時代の有名な哲学者といえばドイツのイマニエル・カントです。
カントは一時期、ルソーの『エミール』を読むことにハマり、日課の散歩も忘れるほどだったという逸話が残っています。
読後、カントは「ルソーは私の誤りを訂正してくれた」と表現し、後の人間理解に大いに役立ったとしています。
他にも、教育学の「発達段階論」で知られる20世紀スイスの児童心理学者ジャン・ピアジェは若い頃に哲学を学び、哲学者を志しています。
このように、哲学と教育には切っても切り離せない関係があります。
大学入試にも出題される哲学
そのような哲学と教育が結びついた伝統は現代に根づいています。
(何が正しいかを決めるのは国家の役割か?)-La liberté consiste-t-elle à n’obéir à personne ?
(自由とは、誰にも従わないことを意味するか?)
これはフランスの大学(バカロレア)の入学試験で実施された2022年度の哲学の問題です。
4時間に及ぶ論述試験では、こうした答えのない哲学的な問いが出題されます。
自分で生き方を考えなければならない時代には、やみくもに詰め込んだ知識よりも、自発的に思考する力が重要になってきます。
だからこそ、実用的な学問から離れた設問はたいへん有用です。
単なる言葉遊びではなく、こうした問いを突き詰めて考えることは長い人生を生きるうえで大切だと考えられているからです。
哲学対話を日々実践することで、難問に立ち向かう強靭な思考力や、自らの考えを組み立てる発想法が身につくことでしょう。
西洋哲学と日本
哲学は広い分野ですが、発祥別に「東洋哲学」と「西洋哲学」に分けられます。
いわゆる哲学というと、「西洋哲学」のことを指す場合が多いでしょう。
東洋の日本人にとって、西洋哲学を根っこから理解することは難しいものです。
というのも、西洋哲学とキリスト教の歴史・文化には深い関係にあり、多くの日本人は仏教徒であるためキリスト教に馴染みがないためです。
したがって、西洋の文化や哲学に触れると、無意識のうちに西洋史に基づいたイデオロギーが強く混入することに注意が必要です。
政治的な問題になるほど、イデオロギーによって前提や意見がガラリと変わるためです。
原爆投下の是非
たとえば、比較的フェアなイメージで知られる前述のサンデル教授をとっても、「太平洋戦争で原爆を使用したことは正しいか?」という問いを投げかけてみるとどうでしょうか。
2010年のインタビューでは、サンデル教授はこの問いを「難しい問題」としつつ、原爆投下は戦争を早く終わらせたのである面では合理的だった、という趣旨の回答をしています。
これは、欧米の知識人にありがちな肯定的ともとれる立場です。
アメリカだけでなく、戦勝国側の多くの人々は同様に答えるでしょう。
これは、唯一の被爆国であり、原爆教育を受けている日本人の大多数の回答とは異なるものです。
実のところ、当時のアメリカの判断はソ連を牽制し、大戦後の政局を有利に進める思惑による政治的判断だったという指摘もあります。
西洋の哲学や思想はいっけん頼りになるようにみえて、歴史的に掘り下げていくと必ずしも正しい答えにたどり着かない場合もあるのです。
西洋哲学の限界
オゾンホールによる酸性雨で森林環境が破壊された問題も、ヨーロッパで先立って起こりました。
キリスト教の「神と人間」の世界観では動植物は蔑ろにされ、人間の文明に都合良く利用することしか頭にないため、環境と共生するという思想は長らく生まれにくかったのです。
そのため、ジブリ映画『もののけ姫』は世界的に注目されました。
「神々が宿る森を大切にする」という日本古来から伝わる多神教的な思想が、一神教の国の人々には新鮮に映ったからです。
さらに細かくいえば、西洋哲学も一枚岩ではなく、発祥元のヨーロッパとアメリカでも立場が異なります。
そのことは、哲学の領域を超えた政治・経済のイシューからも明らかです。
脱炭素化や電気自動車の利用などSDGsの推進についても、積極的な立場をとるEU諸国に対して、経済大国であるアメリカはやや距離をおいています。
それぞれ自国の利益に基づいて、都合の良い哲学を採用しているからです。
したがって、西洋思想を有用で便利だからと額面通り受け取っていては、日本にとって災いをもたらすこともあります。
地震の多い国で原子力発電所をたくさん作り、原発事故を招いたこともその一例です。
グローバルな体制は取りつつも、鵜呑みにしない姿勢が求められます。
西洋哲学というと、科学と同様に一歩も二歩も進んでいるようにみえますが、そんなことはありません。
西洋哲学の限界を自覚し、東洋思想やハイブリッド的な思想といった21世紀にふさわしい新たな考え方を今後模索する必要があります。
まとめ
価値観が多様化・複雑化する時代において、未知の問題に対して創造的な解決策を生み出す社会的要請が高まっています。
とはいっても、ひらめくこと、全く新たな考えを思いつくことは容易ではありません。
多面的・多角的な観点から考察し、正解を導く方法論として、古代の地で発明されたのが「哲学」です。
哲学対話は、哲学のフレームワークに則った、子どもや若者への教育的働きかけです。
問題解決力や創造力の発達だけでなく、相手を気遣う思いやりを養い、帰属意識を育むなど「心」の教育にも大きく寄与します。
「哲学」は多くの場合、文明発展の実績に裏打ちされた西洋哲学と同義でした。
ところが、伝統的な西洋思想をベースにした文明社会の在り方には限界が来ており、あちこちで綻びが見え始めています。
ゆえに、哲学対話ではソクラテス的な哲学の考え方が指針になる一方、大きな学問としての「哲学」と必ずしも同一ではありません。
従来の常識や先入観にとらわれない考え方を引き出し、時代に合った”哲学=生き方”を見出すことです。
さまざまな局面で有用な哲学対話を通して、お子さんの目を正しく見開かせ、よりよい生き方を導いてあげましょう。
この記事を監修した人
「大成会」代表
池端 祐次
2013年「合同会社大成会」を設立し、代表を務める。学習塾の運営、教育コンサルティングを主な事業内容とし、札幌市区のチーム個別指導塾「大成会」を運営する。「完璧にできなくても、ただ成りたいものに成れるだけの勉強はできて欲しい。」をモットーに、これまで数多くの生徒さんを志望校の合格へと導いてきた。