子供に教えられる?「干支・節句・七五三」などの意味をまとめてご紹介

干支・節句・七五三の意味
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日本のカレンダーを見た時、実に様々なイベントがあることに気づかれるでしょう。
最近はテレビでもファミリー向けの教養番組が放送されるなど教養は私達にとって身近な存在となりました。
情報に溢れた現代はいわゆる「常識」の範囲が広がりつつあります。
中でも「干支・節句・七五三」については日本人の教養として子どもに教えられるようにしておきたい所です。

実は干支は60種類ある

干支は別名・十干十二支と言います。
十干(じっかん)と呼ばれる10種類と皆さんご存知の十二支からそれぞれ数字部分を除いた文字を取って干支と呼ばれています。
元々干支は中国など漢字圏の国々で使用されていた数え方ですが、奈良時代〜平安時代に日本が漢字を輸入したと同時にこのような文化が伝わったと言われています。

普段から馴染みのある子・丑・寅は十二支と呼ばれる

干支皆さんの生まれは何年でしょうか。
私は丑年生まれです。
このように動物の種で年を数える事を十二支と呼びます。
日本ではこの十二支を「干支」として指すことが多いですが、本来は後に解説する十干とここで紹介する十二支を組み合わせたものを干支と呼びますので厳密には誤りです。
とは言え十二支を干支と呼ぶ事に関しては慣例的に認められるべきでしょう。

干支の歴史は古く紀元前2000〜1000年前まで遡ります。
当時の中国は殷の時代で十二支は十干と組み合わせて60の周期で日、月、年を表していました。
60日は現在私たちが使用しているグレゴリオ暦(太陽暦のひとつ)換算でおよそ2ヶ月です。
また60ヶ月は同様に5年、60年は還暦となります。
このように中国では60を一つのサイクルとして時間を数えていました。

十二支に話を戻しますと「12種類の動物が割り当てられている」と言うものが最も有名です。
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥と並んでいる十二支ですがなぜこの様な順番となったのでしょうか。

子どもに聞かせる「十二支にまつわる昔話」

古書十二支の動物が決まった経緯に関してですが、以下のような昔話があります。
日本全国で伝わっており初出を掴むことは出来ませんが大まかな内容は同じです。

昔むかし、年の暮れ、神様は動物たちにお触れを出しました。
「元日の朝、私の元へ挨拶に来なさい。12番目までに来た動物は一年ごとにその年の大将にさせよう」
牛は歩きが遅い事を知っていたので前日には出発していました。
またネズミは牛が早くに出発することを見越し、牛の背中に乗って移動することにしました。
牛はコツコツと歩き続けた結果、元旦一番に神様のもとへたどり着くことが出来ましたが、ずっと背中に張り付いていたネズミに先を越されたため一番の座は逃してしまいました。

続いてトラ、ウサギと足の速い動物が到着し4番目までの順序は確定しました。
その次は龍とヘビが到着する事になっていますが、ヘビは龍に順番を譲りました。
ヘビは修行を重ねると龍になると言われていたからです。
ウマと羊は仲良く同時のゴール。
サルとイヌは仲が悪く、鶏が間に入りながらゴール。
最後のイノシシは猪突猛進で神様の元をスルーしてしまい、最後の到着となりました。

他の動物は何故十二支になれなかったのか

この昔話には様々な尾びれがついており面白い話もあるので一部紹介します。

十二支の確定後、カエルとイタチが到着。
カエルは潔く諦めて帰ってゆきましたが、イタチは譲らず神様に何度も交渉しました。
神様は押し負け「ならば毎月一日をツイタチと呼ぶことにしよう」と決めました。
ネコもこの競走に参加していましたが、ネズミに「1月2日に神様の元へ挨拶に行けば良いんだよ」と嘘を吹き込まれたため十二支の仲間には入れませんでした。
この頃からネコはネズミを追いかけ回すようになったと言われています。

どちらの話も十二支に親しみを持ってもらうためのつくり話であり、何故十二支を使い始めたのか、古くの中国でどのように12種類の動物を選定したのかについては明らかになっていません。
諸説あるようですがあくまでも動物の生態を上手に生かしたおもしろ話として捉えておくと良いでしょう。

十干とは?

アイデア皆さんにとって十干(じっかん)とはあまり聞き慣れない言葉のように思われます。
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸と並んでおり、こちらは動物に関係するわけではありません。
先程もお話しした通り日本では干支が干支として捉えられているため、日常的な親近感を覚えることは無いでしょう。
しかし十干も知らず識らずのうちに皆さんの生活に深く根付いています。

日本の慣用句で「甲乙つけがたい」などと言うことがありますが、これは十干の一番目と二番目が「甲乙」と並んでいる事に由来します。
契約書などでも甲乙という言葉を見ることがありますが、こちらは有利な立場にある者を甲とする場合が多いようです。
四字熟語には甲乙丙丁(こうおつへいてい)という言葉もあり、こちらは順序を表すものとして用いられます。
昔の通知表は評価を甲乙丙丁で行っており、甲が最も優秀な成績とされていたようです。
このように順序や序列を表す際、フォーマルな場面では甲乙表記が使われています。

他にも「丙午の女性は気性が荒い」「丙午の男性はひどく亭主関白になる」などの迷信には十干が使われています。
昔から語り継がれている事柄などはきちんと十干十二支で言われる事が多いです。

先ほど紹介した十二支とこちらで紹介した十干を組み合わせると60通りとなります。
昔はこの60通りの組み合わせで順番を表現していました。
先程ご紹介した日付や月、年の数え方の他にも方角や時刻なども表すことが可能です。
よく聞く「丑三つ時」は深夜を指しますが、時計を12分割した時、牛は二番目にあたる(=2時)ためそう呼ばれているという事です。
現在ではこの様な使い方はされておらず実感を得ることは難しいですが、ともかく昔の数え方と捉えていただければ問題ありません。

こぼれ話:野球と干支の意外な関係

夏の高校野球と言えば甲子園ですが、こちらも十干十二支が関係しています。
先程、年を十干と十二支の組み合わせ(全60通り)で表すとお話しましたが、甲子園は甲子の年に落成しています。
甲子の年は十干でも十二支でもトップナンバーであるため縁起が良い年とされていました。
そのため甲子園球場と名付けられるようになったと言われています。
ちなみに甲子園球場は甲子の年に完成していなければ枝川運動場と名付けられていたようです。

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実は輸入文化!?節句のアレコレ

干支と同じく節句は大昔の中国から輸入された文化です。
日本の年間行事としてすっかり定着しているため驚かれる方も少なくありません。
本来の節句は一年を通して数多く設けられている節目ではありますが、日本で節句として普及したものは日本の習慣に馴染んだ5つのみです。
これは江戸時代に幕府が設定してから慣例的に引き継がれているもので、通常は節句料理が出されます。

七草の節句

七草1月7日に家庭で出される七草粥で有名な節句です。
七草粥は節句料理として振る舞われ一年の無病息災を願うもので、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロが入っています。
スーパーなどでも七草をパックとして取り扱っている事も多く、気軽に楽しむことができます。
七草粥は当時貴重なビタミン源として重宝されていました。
現代ほど栄養が豊富ではなかったのでごちそう・健康食として認識されていたという事です。
また七草粥には正月祝で酷使した胃を休ませてあげるといった意味合いも含まれていることが特徴です。
余談ですが子どもが七草粥を食べない時は、お正月に食べきれなかった餅を一口サイズに切って混ぜてあげると食べてくれる場合が多いです。

桃の節句

雛飾り桃の節句はひな祭りとしても知られます。
旧暦では3月3日を節句としており、多くの家庭で雛あられやバラ寿司を楽しむ習慣があります。
古くより節句は邪気が入りやすいと言われており、我々生身の人間の代わりに雛人形へ邪気を追いやる目的でひな祭りが行われてきました。
現在では雛人形も立派なものになり形式的なものに代わりつつありますが、古くは紙で作った雛人形に私達の邪気を吸わせて川に流す「流し雛」が各地で行われていました。
尚、ひな祭りが女の子の行事として知られていますが、それは男の子の日として知られる端午の節句と対のイベントにした事や、雛人形でおままごとをして遊ぶ平安時代の文化を受け継いだことが理由だと考えられています。

端午の節句

端午の節句桃の節句と次いで語られることが多い端午の節句ですが、こちらは男の子の日として知られていますよね。
毎年鯉のぼりをあげて、ちまきを振る舞う家庭も多いでしょう。
別名菖蒲(あやめ)の節句とも呼ばれています。
こちらも由来は大昔の中国で、毎年5月になると菖蒲の酒を飲むなど、現在行われている端午の節句とは少し違うイベントが行われていました。
日本で輸入された端午の節句が独自に進化したのは徳川時代だと考えられています。
徳川家康が政権を握った時代と言えば、長く続いた戦国時代が終結して統一された近代国家への道を歩み始めた時期です。
徳川が武士の心を忘れないようにと端午の節句に兜や刀などを飾った事が現代にまで継がれています。
鯉のぼりは川の逆流に逆らい、まな板の上では潔く諦め大人しくなる事からお手本として非常に愛されていた魚です。

笹の節句(七夕)

七夕飾り実は七夕も節句です。
他の節句と同様に植物名を冠した和名が与えられており「笹の節句」とも呼ばれています。
笹の枝に短冊を吊るし願い事を行う事で知られていますね。
七夕に願い事を書いた短冊を吊るす理由は「まっすぐ天まで伸びる笹が、星まで願い事を届けてくれるから」です。
織姫と彦星のおとぎ話が有名ですが、これも実は中国から輸入されたもので「牛郎織女」という題名で知られています。
一年のうち7月7日のみ織姫と彦星が会うことが出来るという話は俗に言う恋バナのように解釈されることもありますが、実際の話、織姫と彦星は夫婦です。
神様の箱入り娘である織姫ははた織りの達人でしたが、化粧もせず一心不乱に織り続けていました。
それを不憫に思った神様が婿を探したところ、牛の世話に汗を流す彦星を発見しました。
しかし両者が結婚して怠惰な生活を送っていた事に腹を立てた神様は、天の川を隔てて西側・東側に隔離したという話です。
なお七夕の節句料理はそうめんです。

菊の節句

日本に定着している節句の中でも「菊の節句」に関しては知らない人も多いでしょう。
9月9日に菊を用いて長寿を願うイベントです。
元々は菊を漬けた酒を飲みましたが、現在は菊の花を浮かべた酒を飲むように簡略化されているようです。
節句料理としては栗ご飯や焼き茄子が振る舞われます。
秋となると普段の食卓に栗ご飯や焼き茄子が出ることも珍しくないため、本記事をご覧になって9月9日は栗ご飯などを食卓に並べてみれはいかがでしょうか。
またこの時期にスーパーに行くと、菊の和菓子なども比較的安価で発売されておりますので意識して見ると面白いかも知れません。

おせちも実は節句料理のひとつ

おせち料理現在は情報番組やネットコラムでも取り扱われるようになった為に知っている方も多いかと思われますが、実はおせち料理とは節句料理の事です。
つまり上で紹介した節句料理もおせち料理の内です。
現在はその節句料理の中でも豪華で重要な役割を持っていた正月のものを指して呼ぶようになりました。
日本のカレンダー上で最も素晴らしいハレの日とされている正月は、上記の五節句とは格別の扱いを受けている為に、正月料理をおせち料理と呼ぶようになったのでしょう。

またおせち料理は「普段家事に勤しんでいる母親が正月まで家事に明け暮れることのないように」と出来上がったという解釈もありますが、実際のところはあと付けの俗説です。
本来は「神様が家庭に居る間はなるべく火を使わないように」という所から来ているようです。
おせち料理に含まれる食材はすべて縁起の良いものを選択し、また縁起が重なるようにと重箱を使用しています。

昔の七五三は今よりも盛大にお祝いされていた

七五三七五三は子どもの成長を祝う年中行事で主に神社にてお祝いすることになります。
七五三のルーツは平安時代から続く日本の年中行事で11月15日前後の都合が良い日に子どもに晴れ着などを着せて神社へお参りする事になっています。
なぜ11月15日に行われるか明確な理由は分かっていませんが、後に説明する徳川徳松の健康祈願に肖っているというものが最も有力です。
他に15日は縁起の良い日とされていたり、11月は農作物の感謝祭を行うからであったりと様々な説が唱えられていますが、因果関係があるとは言えない状態です。

昔の子どもは7歳まで生きられなかった

そもそも何故3歳、5歳、7歳になると神社にお詣りし、神様に感謝する習慣があるのでしょうか。
それは医療の発達していない時代にまで遡ります。
近代化に成功して、西洋の医学を取り入れる以前の日本では子どもの死亡率がとても高く健康に育てることが大変であったために「7歳までは神の子だ」とも言われていました。
それほど子どもを大切に扱っていたため、当然神社では頻繁に子どもの健康を祈願することになります。
また3歳で言葉を、5歳で知恵を、7歳で歯(永久歯)を神様から授かるとされており、これを感謝するといった意味合いもあるようです。

由来はやはり子どもの健康にルーツがあり、七五三を現代のそれの様にお祝いするようになったのは江戸時代からの事です。
徳川綱吉の長男である徳川徳松がすくすくと健康に育つように祈願したことを発祥とするケースが多いようです。

七五三それぞれの儀式の内容は?

溢れだす疑問3歳では髪置と呼ばれ、昔はこの時期から髪の毛を伸ばしたようです。
生後7日で産毛を剃ってから3歳までは坊主頭で過ごすという風習がありました。
3歳まで髪の毛を生やすことが許されなかった理由に関しては、髪が不衛生な事で生じる病気を防ぐというものが最も有力です。
当時の衛生状態は現代ほど良いわけでは無く、頭部を清潔に保つことによって乳幼児の疾患のリスクを下げていたものと思われます。
5歳では袴着と呼ばれ、主に男児はこの時期から晴れて袴を身につけることが出来るようになります。
7歳の帯解は女の子が初めて帯を身につける行事を指します。

近代以前の日本では幼児の死亡率が大変高かったことから、7歳未満の子どもは戸籍に登録することが出来ませんでした。
7歳までは子どもの魂はこの世に定着していない状態とされていたため、アジア圏では縁起の良い奇数の歳にライフイベントとして行われていたという見方をすることも出来ます。
7歳を過ぎると晴れて一人前の人間として認められる事になり、感謝の気持をもって神社にお詣りする事となります。
氏神様にお詣りする事から「氏子入り」と呼ばれます。

上記のようにまだ医療や公衆衛生の発達していない日本においては子どもの成長祈願やお祝いは大変重要なイベントとなっていた為に現代の日本においても根強くその習慣が残っているという事です。
子どもの成長をお祝いする形式的な儀式となった現代とは少しだけ事情が違うことを覚えて頂けたらと思います。

男の子は5歳だけ?女の子は3歳と7歳?

七五三の子供私達の親世代では男の子は5歳のときにお祝いを、女の子は3歳と7歳の合計2回お祝いを行うという事が常識でした。
しかし現在はその認識もバラバラのようです。
以前の通り男の子は5歳だけ、女の子は2回お詣りをするという家庭もあれば、男の子女の子関係なしに3回きっちりとお詣りするという家庭もあります。
価値観や情報が豊富になった事や七五三に関連する業界のビジネス戦略という事情もありますが、ともかく以前よりも七五三は多様化しつつあります。

家庭によって様々であるため、保護者の方にとっては「男の子だけど3歳と7歳にもお詣りに行くべきか」などと悩まれる方もおられます。
全ての年齢でお詣りをしても良いという事が結論として挙げられます。
先程説明した通り、七五三は「子どもの健康的な成長を神様に感謝しお祝いする」ためのイベントです。
男の子の歳と女の子の歳を分けて考えられるようになった江戸時代以前は男女ともに全てお祝いしていましたし、男の子と女の子を区別する事自体がタブー視される時代でもあります。
この点は保護者の方の価値観で行ってもらって問題ありません。

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さいごに:子どもに語れる豆知識を

干支・節句・七五三を詳しく解説しましたが、日本の文化には他にも興味深いものがたくさんあります。
あくまでも基本的な教養として知っていただけると良いかと思われます。

子どもが小さい頃は「なんで干支の最初ってネズミなの?龍は何で一番じゃないの?」少し成長すると「甲乙つけがたいの甲乙って何?」大人になってからも「今年は癸酉だからお母さんの還暦だな」と干支の知識だけでも一生使うことが出来ます。
子どもとのコミュニケーションのきっかけにもなる為、ぜひ覚えていただければと思います。

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この記事を監修した人

チーム個別指導塾
「大成会」代表
池端 祐次

2013年「合同会社大成会」を設立し、代表を務める。学習塾の運営、教育コンサルティングを主な事業内容とし、札幌市区のチーム個別指導塾「大成会」を運営する。「完璧にできなくても、ただ成りたいものに成れるだけの勉強はできて欲しい。」をモットーに、これまで数多くの生徒さんを志望校の合格へと導いてきた。


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公開日:2020年3月6日 更新日:2024年2月28日  
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