道内の受験生で、歴史が嫌いな人は、道内旅行をしてみてください。
歴史は本来、とても楽しい科目です。
楽しいから、歴史は漫画になったりアニメになったりゲームになったりしているのです。
ではなぜ、歴史を嫌うようになってしまうのでしょうか。
それは「歴史を実感」しないからです。
実感もエンターテイメントの要素もない歴史の勉強は、単なる年号と人物名を覚える作業でしかありません。
そこで北海道遺産を巡る旅行をして「歴史の現場」に触れれば、「歴史をもっと知りたい」と思えるようになります。
歴史を知りたくなったら、もう「勉強しなければならない」と思う必要はありません。
勉強するつもりがないのに、自然に歴史を調べているでしょう。
根室旅行で戦後史を学べる
根室は日本の最東端です。
それだけでも観光する価値がありますが、ここに行くと北方領土を見ることができます。
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島から成る4つの島(歯舞群島は小さな島の集まり)のことを北方領土と呼び、それらは現在、日本の領土でありながら日本人が簡単に行けない場所になっています。
ロシアが不法占拠しているからです。
北方領土はロシアから返還を受けて発展させなければならない土地なので、いわば「未来の場所」であり、遺産ではないのですが、遺産並みに価値がある歴史の舞台といえます。
根室で北方領土を見れば経緯を知りたくなるはず
北方領土問題は、日本戦後史の重大事のひとつです。
戦後史は日本史の試験で頻出するので、北方領土を見て戦後史に関心を持つことは十分受験対策になります。
第2次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連(現ロシア)が突如、日ソ中立条約を破って日本に戦争をしかけ、8月25日から9月5日までのわずか12日間で北方領土をすべて占領してしまいました。
ソ連が攻め込んでくる前に、北方領土にはソ連人は1人もいませんでした。
一方、日本人は約1万7千人もいました。
ソ連は1948年までに、日本人を1人残らず北方領土から追い出しました。
この国際事件と、日本史の勉強をリンクさせていきましょう。
関連した日本史
北方領土問題を、次の事柄と関連づけながら学習していきましょう。
広島と長崎への原爆投下
ソ連が北方領土に攻め込んできた1945年8月9日は、アメリカが長崎に原爆を投下した日でもあります。
そしてその3日前の8月6日には、広島に原爆が投下されています。
終戦とポツダム宣言
昭和天皇が日本の降伏を国民に伝えたのが1945年8月15日です。
8月15日は現在「終戦の日」と呼ばれています。
つまり8月15日は、広島への原爆投下の8月6日の「9日後」であり、長崎への原爆投下とソ連の北方領土侵出の8月9日の「6日後」です。
日本政府は、広島への原爆投下でも降伏を決めず、長崎への原爆投下でも降伏を決めず、ソ連の侵出でも降伏を決めず、それから数日経ってようやく降伏を決めたのです。
ここからも、当時の日本政府の「決められない体質」のひどさがわかります。
終戦に先立つ1945年7月26日、米英中は日本に、降伏を求める「ポツダム宣言」を出しています。
このとき日本政府がポツダム宣言を受諾していたら、2つの原爆投下も北方領土問題も存在しなかったかもしれません。
日本政府がポツダム宣言を受諾したのは、8月14日で、昭和天皇が降伏を国民に伝えた前日です。
日本の歴史を効率よく学習するために、根室旅行に出る前に、ポツダム宣言の内容 を確認しておいてください。
日本人が北方領土に行ってはいけない理由
北方領土は日本の領土であり、ロシアが不法占拠しています。
現在の日本政府は、特別に許可した場合を除いて、日本人に北方領土を訪れないよう要請しています。
その理由は、以下のサイトに説明されているので、確認しておいてください。
このサイトを確認することで、歴史の重要項目のひとつである「領土」を学ぶことができます。
※参考:https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_qa.html#q1
根室ではここに行こう
戦後史を学ぶための根室旅行では、以下の場所に行ってみてください。
納沙布岬
北方領土が見える場所です。
歯舞群島の一部である貝殻島は、ここから3.7キロの沖にあり、肉眼で確認できます。
また、納沙布岬は日本で一番早く日の出を見ることができる場所です。
運がよければラッコやクジラをみることもできます。
住所:根室市納沙布岬
根室市北方領土資料館
根室市北方領土資料館では、戦前の北方領土での、日本人の生活の様子がわかる展示がされています。
納沙布岬から徒歩1分の場所にあります。
住所:根室市納沙布岬33番地2
開館期間:1月4日~12月28日
開館時間:午前9時~午後5時まで
11月~4月の間は毎週水曜日が休館日
入場料金:無料
駐車場:有
稚内旅行で氷河期を学べる
日本の最北端、稚内では、歴史の授業で学ぶ「氷河期」を体験することができます。
稚内市宗谷岬付近に広がる「宗谷丘陵」は、ただながめているだけでは、北海道各地で見ることができる牧草地です。
牛がのんびり草を食んでいます。
しかし、宗谷丘陵に広がる「なだらかな斜面」は、約1万年前まで続いた氷河期の寒冷な気候が生み出した地形です。
宗谷丘陵の現在の形は、1万年間ほとんど変わっていないと考えられていて、そのような土地は非常に珍しいのです。
稚内旅行に出かける前に、氷河期について調べておきましょう。
氷河期とは
歴史の授業では、氷河期を「250万年前から始まった、地球全体の3分の1が氷に覆われていた時代」と習います。
日本とユーラシア大陸(ヨーロッパとアジア)の間の海も凍ったことから、両者はつながっていました。
それで、日本に生息していないはずのナウマンゾウの骨が日本でみつかるという「珍事」が起きています。
また歴史の授業では、氷河期と絡んで「猿人、原人、新人(ホモサピエンス)」の違いや、旧石器時代から新石器時代にかけて、石器が飛躍的に進化したことも習います。
このあたりの知識を持っておくと、宗谷丘陵に立ったときに「1万年前の人もこの光景を見たのか」と思うことができます。
氷河期がどのように宗谷丘陵をつくったのか
では、どのようにして、氷河期の寒い気候が、宗谷丘陵のなだらかな丘をつくっていったのでしょうか。
氷河期の終盤になると、地面の水分は凍結と融解を繰り返すようになりました。
水は凍って氷になると体積が大きくなります。
ペットボトルに水を満杯に入れて冷凍庫に入れると破裂するのは、体積が大きくなるからです。
氷河期の終盤は、次のような工程が繰り返されていました。
- 地面の水分が凍結して地面を破壊する
- 氷が融解したときに地面の亀裂から水が入り込む
- 地面の水分が凍結して地面を破壊する
- 氷が融解したときに地面の亀裂から水が入り込む
この工程によって、岩が砕かれ山が崩壊し、地面の尖った場所が次第に丸みを帯びてきます。
それで、なだらかな丘ができあがったのです。
氷河期終盤がつくり出したなだらかな丘は、道内各地にできましたが、都市開発が進んだ場所は丘が切り崩されてしまいました。
また、開発されなかった場所も、森ができて地表の形が見えなくなっています。
宗谷丘陵は開発されなかったことに加えて、明治時代に山火事が相次ぎ、森も消えてしまいました。
それで、1万年前の風景が「丸裸」のまま見ることができるわけです。
稚内旅行の予習をすると、地学も学ぶことができます。
宗谷丘陵の楽しみ方
宗谷丘陵を堪能するには、宗谷岬から歩くことをおすすめします。
11キロの「稚内フットパス・宗谷丘陵コース」が整備されています。
雄大な宗谷丘陵の景色を眺めながら、大体4時間くらいで歩いてゴール地点の「宗谷歴史公園」に到着します。
宗谷歴史公園からJR稚内駅までバスがあるので、稚内市内に戻ってくることができます。
このコースを歩くことができるのは5月から10月までです。
コース地図が下記のサイトに掲載されていますので参考にしてください。
※参考:http://www.wakkanai-cci.or.jp/wakkanai-footpath/course_guide/course_souya/
函館旅行で幕末を学べる
日本の歴史では、北海道はマイナーな存在です。
日本史といえばやはり、京都、東京、大阪、名古屋が中心になります。
その北海道にあって函館は別格です。
函館旅行に出かければ、幕末の様子を学ぶことができます。
現代の北海道経済は函館から始まる
1853年にペリーが来航したとき、徳川幕府はアメリカと日米和親条約を結び、下田港(静岡県下田市)と箱館港(現、函館港)を開きました。
この開港がきっかけとなり、徳川幕府は直接、蝦夷地(当時の北海道の名称)を治めることにしました。
さらに箱館奉行所を開設して、外国人の対応をさせました。
そして函館に拠点ができたことで、北海道開拓が始まりました。
北海道の近代的な経済のスタート地点は函館です。
函館旅行を計画したら、ペリー来航前後の歴史を予習しましょう。
例えば、以下のサイトが参考になります。
※参考:https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700352/
五稜郭と大政奉還
箱館奉行所は当初、函館山の麓にありましたが、外国から海から攻撃される危険があったことから、当時の箱館奉行がより強固な建物をつくるよう、幕府に提案しました。
そうしてつくられたのが五稜郭です。
五稜郭は1864(元治元)年に完成しましたが、その3年後の1867(慶応3)年に大政奉還され、徳川幕府が終焉します。
五稜郭は現在「跡」しかありませんが、桜の名所として知られています。
五稜郭までのアクセスは、JR函館駅近くの「函館駅前」から市電に乗り、「五稜郭公園前」で下車して徒歩約15分です。
五稜郭と戊辰戦争のなかの箱館戦争
函館はもう一度、日本の歴史のなかに登場します。
函館は、明治政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争の戦場になりました。
戊辰戦争は、1868年(慶応4年、明治元年)の鳥羽・伏見の戦いで始まり、1869年の箱館戦争(または五稜郭の戦い)で終わりました。
旧幕府軍を率いた榎本武揚は、東京から軍艦で蝦夷地・鷲ノ木(現在の北海道森町)に入り、そこから箱館・五稜郭を目指しました。
榎本は自ら総裁となり、蝦夷地仮政権を樹立します。
しかし1869(明治2)年に明治政府軍の総攻撃に遭い、敗北しました。
このとき、榎本を救援しようとした新撰組副長の土方歳三は戦士しましたが、榎本は生きながらえることができました。
五稜郭の歴史については、下記のサイトでも確認しておいてください。
※参考1:https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700352/
※参考2:https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700789/
黒田清隆と福沢諭吉とその後の榎本
生きながらえた榎本は投獄されました。
明治政府のなかには、榎本に厳罰を与えるべきであるとの声もありましたが、榎本の才能を知っていた黒田清隆や福沢諭吉らが助命を主張して、拘束が続きました。
黒田清隆と福沢諭吉は、日本の歴史の重要人物なので、下記のサイトで学んでおきましょう。
※参考1:https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/71.html?cat=124
※参考2:https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_24.html
1872(明治5)年に「特赦」という政府による赦(ゆる)しが出て、榎本は出獄します。
榎本はその後、政府の命を受けて北海道開拓使に加わります。
そのなかで炭田を発見するなどの功績をあげました。
北海道の炭田から採れる石炭は、その後の日本経済の基盤となりました。
函館ドラマ
幕末の函館の様子を「さらり」とのぞいただけですが、それでもドラマチックな展開が繰り広げられていました。
明治政府は、反逆した榎本武揚を死刑にしなかったばかりか、北海道開拓という重要かつ過酷な仕事に就かせました。
榎本は、自ら戦争をしかけた明治政府に投獄されながら、明治政府の指示に従って北海道開拓使の任務をまっとうし、さらに実績も残しました。
「函館ドラマ」についてこれだけでも知っておけば、函館旅行はとても楽しくなるはずです。
まとめ~歴史は教室では起きない
日本の歴史では、決してメジャーな存在ではない北海道でも、これだけのことが学べます。
そして「北海道旅行による歴史勉強」を実行すれば「京都旅行による歴史勉強」や「東京旅行による歴史勉強」を企画することができます。
つまり、「ロンドン・パリ旅行による世界史勉強」も可能なわけです。
教室や自宅の机で学ぶ歴史に興味が持てなくても、歴史の現場に赴けば「歴史のにおい」に興奮するはずです。
歴史のにおいを嗅げば、より一層、歴史について知りたくなるはずです。
歴史の勉強は、本来はエキサイティングなものなのです。
この記事を監修した人
「大成会」代表
池端 祐次
2013年「合同会社大成会」を設立し、代表を務める。学習塾の運営、教育コンサルティングを主な事業内容とし、札幌市区のチーム個別指導塾「大成会」を運営する。「完璧にできなくても、ただ成りたいものに成れるだけの勉強はできて欲しい。」をモットーに、これまで数多くの生徒さんを志望校の合格へと導いてきた。