テレビのバラエティ番組等で「変な校則がある!」と特集されていることがあるかと思います。
ですが、本当にそんな変わった校則・変な校則が存在してるのか疑問に感じる人も多いでしょう。
そこで今回は、日本の学校に存在する変わった校則・変な校則についてまとめていきたいと思います。
本当に変な校則は存在するの?
実際に、今の世の中では許容できないおかしな校則等が数多く存在します。
学校も日本国内であり、本来であれば日本の法律に基づき校則等も決められるべきではありますが、学校という一定の年齢の人間を集め、勉強を教えるという特殊な状況下でもあることから、昔から存在する現実的に考えれば、おかしい校則があります。
また、社会の変化に伴い、校則も多様化しています。
例えば、10年前だとそこまで携帯電話(スマートフォン・iPhoneが誕生する前のガラケー)の仕様についての校則はそうなかったことでしょう。
ですが、スマートフォン・iPhone等の高機能携帯端末の普及により、制限をしなくてはいけなくなった学校は多いことでしょう。
もちろん、学校の秩序、授業中の規律を守るために授業中等の勉強に集中する際には電子機器の操作をしないというような校則等はあってもいいかもしれません。
ですが、過剰な校則は返って学生たちの反発を招きます。
今回は、そんな日本の学校に存在するさまざまなブラック校則・変な校則についてご紹介してまいります。
なせ学校は校則を作るのか?
まず初めに、なぜ学校は校則を作るのかについて考えていきたいと思います。
これは、大人(ここでは先生たち)の視点から物事を考えていきたいと思います。
思春期とは子供が大人に近づくにつれ身体的な成長はもちろん心理的にも大人へと近づいていく重要な時期です。
この人格形成期に受けた影響、出会った人、やっていたことに非常に大きな影響を受けるそんな大切な時期です。
そんな人間として大事な時期に関わる学校・先生たちには非常に大きな責務・責任がのしかかっています。
そのため、先生たち管理者からすると色々なルールや決まりごとを通して問題の芽をつむということは非常に大切となっております。
もちろんおかしなルールや校則は数多く存在しておりますが、その大部分は理にかなったものなのです。
また校則の中には保護者の方からいただいた意見から作られたものから、先生たちが生徒を思うあまり作ってしまった校則などもあることから、必ずしも生徒たちの自主性等を軽んじて決めたものではない場合があります。
もちろん時代にそぐわず生徒たちの意見を無視したものも多数存在していますが、基本的には生徒・学生のことを考えて作られたものが非常に多いです。
可能な限り危険から生徒・学生たちを離し、思春期に学校生活で危険を回避できるよう考えられているものが、非常に多いです。
しかし、そこまで保護が必要ではないかもしれません。
最も生徒や学生の自主性を育むためにはあまり制約をしすぎると悪影響を及ぼす可能性があります。
そこで、今回はブラック校則・変な校則「6選」あなたの学校は大丈夫?ということで日本に存在しているブラックな校則・変な校則について書いていきたいと思います。
みなさんがこれを読んで、「日本にもまだこんな校則があるんだ!」「私たちの学校にはこんな変わった校則もある!」「この校則はこう変わればいいのにな」などと想像して読んでくれると嬉しいです。
ここからは実際にあった事例も入り混ぜて解説していきたいと思います。
肌着の着用禁止
これはテレビのニュースでも大々的に取り上げられたので記憶に新しいのではないでしょうか。
ある小学校で教師たちがが肌着を着用している児童たちに対し、「(肌着を)脱げ」という声かけをしたというものです。
このような声かけから児童たちは混乱し、家に帰ったあと保護者へ報告をし、後日保護者会議で「一方的な脱げという声かけはどうなのか」となり、学校の管理者校長・教頭へ報告をし、確認をしたところ教師たちの声かけが不十分であり、間違った意図で伝わってしまったとのことだが、このような脱ぐ脱がない、どんな服装で過ごすかということは本来個人の自由であり、学校のきまりさえ守っていれば、児童・生徒・学生が自分たちで判断して脱ぎ着するべきものであるべきだろう。
実際に川崎市では、”川崎市立の一部の小学校で「体操服の下の肌着着用が禁止され、嫌がる児童がいる」と市議会で議員が指摘。
川崎市教委が市内全114校を調査した結果、禁止した学校はなかったが、34校で主に低学年に着用しないよう声掛けしたことが判明した。
滋賀県守山市でも同様の事例があった。
これにより、実際に多くの学校で「肌着の着用禁止」という謎のルールが出来上がっていたということが報告されています。
人はそれぞれ感じる気温等は違うため、教師が暑いからと行って子供たちにそれを押し付け、声かけをするのはどうだろうか。
例えば、「暑かったら脱いでもいいよ」という声かけならば、児童たちは暑かったら上着は自分の判断で脱いでもいいと認識できます。
上着の脱ぎ着さえ子供たちで自由にできないような学校はどうなのだろう。
本来学校は生徒の自立を促し、自分たちで世の中を元気に生きていくための能力を育てていく学び舎であるはずなのに、このような謎な制限ばかりでは、自分で物事を考えることができる子を育てていくことは難しいでしょう。
髪の毛の染色禁止
こちらは、多くのみなさんが今まで体験した、または、体験していることの一つでしょう。
こちらの高速ですが、どうやら日本だけのようです。
欧米では、人種が多様である。
そして、個人のアイデンティティを守る観点から、このような謎の校則はありません。
基本的にどのような見た目であっても問題はなく、どのような見た目かではなく、どのような人間かということが大事なように思います。
あるテレビ番組のインタビューでこちらの話題がアメリカやヨーロッパの人に対しインタビューをしていました。
その際に多くの人がこちらの校則について非常に驚かれていました。
インタビューを受けていた方達は、「見た目はどうであろうが勉強には全く支障はない。個人のアイデンティティを尊重するべきだ。」とインタビューで答えていました。
確かにそのような意見は最もです。
しかし、日本の学校教育では、学校の校則というものは絶対的な力を持っています。
そこで、「髪の染色禁止」の校則はなぜできたのかということを考えていきます。
これは、教育の現場で生徒の規律を律するためであり、学校では髪の染色は勉学に関係がないという意見です。
こちらは、学校という特殊な環境下であれば、許されるべきことではありますが、この校則にどんな良い効果があるのでしょうか。
髪の染色がなぜいけないのかということに関し、納得できる十分な理由を述べた上で禁止するのであれば、生徒たちは聞き入れることができるでしょう。
しかしながら、ただ「髪の染色は禁止」という校則だけが存在する場合、それに従うことは非常に難しいでしょう。
その他髪に関する校則で言えば、「ポニーテールの禁止」、「髪が肩についたら束ねなければいけない」等謎な校則が数多く存在します。
これらは多くの場合、特に理由を気にすることなく、校則として決まっているからダメなことだと考えてきた・考えている人は非常に多いでしょう。
しかし、社会に出るとこれらの校則がいかに無意味であり、無価値なものであるかわかるでしょう。
しかし、学校という特殊な環境下では、このような決まりがないと生徒たちを一つの集団として先生たちがコントロールすることができないため、このような決まりができているのではないでしょうか。
どのような集団でも、一人個性的な人がいるとその人にスポットがあたり、グループを管理するのは非常に難しくしています。
さらにこの話題と関連して、ある学校には「髪色の登録」という校則があるようです。
入学時に髪色を指定(地毛であることを証明)する必要があるというものです。
例えば、地毛が元々少し茶色い人は幼少期等の写真でその現在の髪色を証明できる物的証拠を学校へ持って来なければならないというものです。
弁当の中身が決まっている
これは、非常に奇妙な校則の一つですが、「弁当に寿司を持ってきてはいけない」という校則がありますが、なぜこのような校則があるのでしょうか?
これに似たような校則の一つで豪華なお弁当を持ってきてはいけないというものがあるようです。
これは、他の生徒が学校に豪華な弁当をもったきたことを親に報告をし、その親が学校に報告を認め、決まった校則のようです。
背景として、学校に豪華な弁当の持ち込みの禁止を要請した親はあまり豪華な弁当(おかずが多くてカラフル)を用意できないため、それをしているお弁当を禁止しようという非常に自分勝手な理由でした。
他のお弁当のことなど気にせず、ただ自分の子供のことだけを考えればいいもの他人を気にするばかり、他の人にまで制限をかけてしまうということがありうます。
このように学校教育のルールはさまざまな状況により変動をすることがあります。
髪型の指定
みなさんも聞いたことはないでしょうか、男の子のツーブロック(横の刈り上げ)は禁止、女の子はツインテールのみ、などよくわからない校則が存在します。
もちろん、服装を決める校則があるのであれば、髪の毛を指定する校則だってあるでしょう。
そして、学校では、頭髪検査なるものが存在していることがみなさんも知っているでしょう。
この頭髪検査なるものはなぜ存在するのでしょうか。
ある学校の先生はこう言っていました。「学生・生徒として清潔感があり、奇抜でない髪型が好ましい。」果たしてそうでしょうか?
必ずしもツーブロックが清潔感にかけており、奇抜な髪型ではないかと思います。
もちろん当初の染色を禁止している日本からしたら考えられる校則ではあるかと思います。
また、一時期話題になった奇妙な校則の一つとして、ポニーテールは禁止というものです。
そして、その禁止理由がなんとも奇妙なものとなっており、理由としては、「うなじが露出して男子の欲情をあおる可能性があるから。」というものでした。
このような意見はこちらの校則を考えた先生たちまたは保護者がそう考えるのであり、特に生徒や学生たちは気にしていないのではないでしょうか?
髪型は個人を表す大切なアイデンティティの一つですが、残念ながら多くの学校では基本的に頭髪には非常に細かい決まりがああり、自分がしたい髪型にするのは比較的難しいでしょう。
しかし一部の高校等では、髪型や髪の色について自由にすることを認められていいる場合も多くあります。
これは校風による影響が非常に大きいかと思います。
髪型の指定により、生徒・学生の素行がよくなり、より良い学校になるという根拠等はないため、必ずしも生徒・学生たちに強制するべき校則ではないのかもしれません。
校内恋愛についての校則
校則と聞いて”校内恋愛”のことを思い浮かべた人は少なくないのでは、ないでしょうか?
こんなおかしな校則がある学校があるそうです。
「校内恋愛をする際は先生に報告をしなければならない」という奇妙な校則があるようです。
これは、先生が学校の風紀のために把握しているようですが、一体ここまでする必要はあるのでしょうか。。。
生徒の行動・性格を把握し、管理することは学校の風紀を正すために大切なことの一つでしょう。
しかし、行き過ぎた管理は生徒たちの自主性を奪ってしまい、反対に生徒たちからの反発を生んでしまい、結果として失敗する可能性は多いに考えられます。
なんでも思春期の生徒たちは先生たち含め大人から反発したいという人が多いでしょう。
そのため、多くの制限により生徒たちを校則してしまうと反発を生んでしまい、本来先生たちが求めていた規律ある学校運営が難しくなるため、この校内恋愛等の扱いは非常に難しいでしょう。
現にこの校則により、停学または退学まで追い込まれた生徒・学生もいるようです。
ですが、こちらの校則は完全に学校のみのルールであり、社会では恋愛を禁止・制限する法律などないです。
そのため、どんなに学校でルールを指定してもそれを生徒たちに意味あるものであると思わせることができないと、ルール(校則)を守ってもらうことはできません。
さらに、法律では恋愛を規制している法律はありません。
そのため、いくら校内で恋愛禁止の校則を作ったところで、社会では通用しない非常に限定的な条件下でのみ通用する校則です。
この校則が学校のみで通用するため、非常に限定的な校則であるといえます。
下着の色が指定されている
これも同じく非常に奇妙な校則の一つです。
「下着は白でなくてはならない」というものです。
下着なんて普通に生活していたら見えることはないですが、このような指定をする意図はなんなのでしょうか。
もはや先生たちの好みにも思えてきますが、先生たちの言い分としては、「制服等をきた際に制服から下着の色が透けるから」というものでした。
しかし、下着の上に肌着等をきていれば、下着は見えることはないし、先生たちも気にする必要はないように思います。
そして、ある学校では、男女両方の生徒が集まる体育館で下着の色チェックというものが行われ、先生方が女子生徒の下着の色をチェックするという非常におかしな校則があるようです。
このように、下着の色の指定という何が問題なのかわからないことが校則になっているということから、日本の学校教育の奇妙さがわかります。
このようの校則は社会では全く問題ではないし、むしろこのような校則は人権侵害である可能性・そして生徒の心理状態を考えない悪い習慣であるといえます。
現にこの校則のように身体的な制限をする校則により、不登校になったり心理的にダメージを受ける生徒が数多くいるようです。
このような無意味な校則を指定し生徒たちの成長の妨げつなるようなことは避けるべきではあるという考えから、近年ではこのような無意味な校則の見直しが数多くの学校でされているようです。
しかしながら、全ての学校で同様に見直しがされているわけではないようで、今でも一部の学校では、同様にこの無意味な校則が続けられているようです。
下着が青年健全育成に影響を及ぼすのであれば、学校が着用する下着の色を指定するにはそれ相応の理由や根拠が必要でしょう。
何か科学的または多くの人を納得させられる根拠があるのであれば、下着の色の指定をされても誰もは反発はしないでしょう。
そのため、このような奇妙な校則を作るのであればこれを指定することに納得ができる根拠が必要であると考えます。
まとめ
このようにさまざまな変わった決まり・校則が存在する理由として、日本特有の考え方があります。
学校教育では、平均的にみんなが勉強やスポーツができるよう学校側はサポートをし、生徒の自主性・主体性よりも規律を守りその中でも平均的に物事をこなしていくことができる能力を育てるため、一見奇妙な校則や決まりがあります。
一方アメリカでは、個人の自主性・個性を伸ばすための教育をしているため、例えば教育科目で苦手科目があっても、そのほかに得意科目等がある場合、その得意科目ができれば、それで生きていくことができます。
もちろん全ての科目で努力は必要ですが、尖ったスキルがあれば、それでいいのです。
例えば、国語が苦手でいつもテストで平均点以下しかとれず赤点ギリギリだとします。
ですが、数学が圧倒的に得意でいつもテストが満点、しかも2学年以上上の問題を解くことができるなど、人にはない鋭く尖った特徴がある場合、その特徴を伸ばすことができるさまざまなサポートが受けられます。
一方、日本では一部の能力が突出して優れているのではなく、全ての能力が平均的にあることが好まれます。
その考えから、全ての学生・生徒に規律を求め、健全な学生生活をおくるために学生たちに”制約”を課し学生生活を送らせるという考えが日本の学校教育です。
なぜ校則が必要かということを考えた時の一つの答えとして、はみ出しものを生み出さずにみんな同じ条件のもとで管理をする方が先生たち学校運営側には非常に簡単です。
なんでも学生たちはまだ子供のため、大人のように制約なしで学校生活をすると、学校によっては先生たちの監視が行き届かずにコントロール不能となります。
そのため、生徒たち全体を守るために決めた校則ではありますが、それにより生徒たちに苦しい思いをさせてしまうという結果になってしまいます。
ある学校では、生徒会を開き、学校の生徒・学生から意見を募り、先生たちと話し合いの場をもうけ、実際に議論をし必要な校則かそうでないかを決め、校則を新たに作り直すという画期的な取り組みをしている学校もあるようです。
確かに校則は日本の法律と同じで、学校創設当初から残るものが多く、時代が変化していっても変わらぬものが非常に多いです。
しかし、それを学生たちで話し合い、建設的に改善案を出し合い、先生たちと話し合うというのは素晴らしいアイディアではないでしょうか?
今存在する奇妙な校則を自分達の力で変えて、より良いものにしていくことが今後より心地よく学校生活を送っていくために必要なことであると考えます。
もちろんすぐに校則を変えることは難しいですが、誰かが変えていくしか未来を変える方法はありません。
この記事を監修した人
「大成会」代表
池端 祐次
2013年「合同会社大成会」を設立し、代表を務める。学習塾の運営、教育コンサルティングを主な事業内容とし、札幌市区のチーム個別指導塾「大成会」を運営する。「完璧にできなくても、ただ成りたいものに成れるだけの勉強はできて欲しい。」をモットーに、これまで数多くの生徒さんを志望校の合格へと導いてきた。