教育虐待とは、教育熱心な保護者が、子供の意志や子供の受容能力などを考慮せず、過剰な学習スケジュールを課したり、子供が勉強しなかったり成績が振るわなかったりしたときに暴言や暴力を浴びせたり、育児放棄をすることです。
この定義は厚生労働省が定めたものではありませんが、教育専門家たちは教育虐待を、大体このようにとらえています。
保護者が自分の子供に学習指導することは、よいことです。
しかし、その指導が教育虐待になると、悪いことになります。
最近、教育虐待の最悪のケースが発生しました。
中学受験を控えた小学6年生の長男を、「勉強しない」ことを理由に、父親が包丁で刺殺したのです。
この事件には、教育虐待の本質が詰まっています。
そこでこの記事では、この教育虐待殺人事件を振り返ったうえで、「保護者が教育虐待を犯さない方法」を考えてみます。
「教育虐待」は強く「勉強しなさい」と言うのと全然違う
教育虐待殺人事件の概要を確認する前に、「教育虐待」と「学習指導」の違いを明確にしておきます。
子供に勉強をすすめる学習指導はよいこと
普通の学習指導は、よいことです。
なぜなら、保護者は、子供の将来を考えるからこそ、「今こそ勉強しておいたほうがよい」と判断して「勉強しなさい」と言っているからです。
多くの子供は、保護者の学習指導がなければ、勉強をサボります。
なぜなら、勉強のなかに快楽を見出すことが難しいからです。
大人でも、勉強や学問を「楽しい」と思える人は少数派です。
自己の欲望をコントロールできない子供であれば、なおさら、勉強を放棄して遊びたいと考えるでしょう。
そのため、保護者が「勉強しなさい」と口を酸っぱくして注意して、子供に学習習慣を身につけさせることは必要です。
児童虐待は許されない、だから教育虐待も許されない
しかし、学習指導が教育虐待の領域に突入してしまうと、途端にそれは悪いことになります。
「よいこととしての学習指導」と「悪いこととしての教育虐待」の関係には、次の2つの特徴があります。
- 教育虐待は学習指導の延長線上にある
- 教育虐待は児童虐待である
冒頭で、教育専門家たちによる教育虐待の定義を紹介しましたが、これは「児童虐待そのもの」です。
厚生労働省は児童虐待を次のように定義づけています。
身体的虐待
殴る、蹴る、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束するなど
性的虐待
子どもへの性的行為、性的行為を見せる、性器を触る又は触らせる、ポルノグラフィの被写体にするなど
ネグレクト
家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れて行かないなど
心理的虐待
言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、子どもの目の前で家族に対して暴力をふるう(ドメスティック・バイオレンス)など
教育虐待では、この4つの児童虐待のうち、主に身体的虐待とネグレクトと心理的虐待が問題になります。
保護者がいくら「自分の子供に学習指導をしているだけ」と主張しても、そこに、こうした児童虐待の要素が少しでも含まれれば、それは教育虐待と認定されるべきでしょう。
悪いことである教育虐待は、よいことである学習指導がエスカレートしたものと考えられます。
しかし、教育虐待と学習指導は、完全に分離して考えるべきです。
保護者が「なんとなく学習指導が行き過ぎて、教育虐待になってしまった」と主張しても、それは認められるべきではありません。
つまり、「厳しい学習指導」の次のステップが「教育虐待」であってはならないのです。
教育虐待の最悪のケース
教育虐待の最悪のケースとして、小学6年生の長男を、実の父親が殺害した事件を紹介します。
2016年に愛知県で発生しました。
「かなり悲惨」な内容になっていますが、教育虐待を考えるうえで避けて通れない事件ですので、報道されている内容を紙幅の許す限り詳細に報告します。
事件の内容
事件は2016年8月21日に起きました。
父親が自宅で、小6の長男の胸を、刃渡り18.5センチの鋭利な包丁で強い力で1回刺し、殺害しました。
父親の殺害動機は、長男が勉強しなかったから、です。
長男が憎かったからでも、長男が邪魔だったからでもなく、勉強しなかっただけで、実父が実子を殺したのです。
2019年7月の地裁判決の内容
父親の弁護士は裁判で、父親に殺す意図はなく、刃物を見せて長男を怖がらせて、受験勉強をしない態度をあらためさせようとしただけだ、と主張しました。
弁護士がそのように主張したということは、父親もそのように主張していると考えてよいでしょう。
弁護士というものは裁判で、自分が弁護する被告人(この場合、父親)の意向に反することは言わないからです。
2019年7月に、愛知県内の地裁で裁判員裁判の判決が下され、殺人罪で懲役13年が言い渡されました。
弁護側は傷害致死罪を主張しましたが、殺人罪が適用されました。
傷害致死罪は、殺すつもりはなかったけど被害者が死んでしまった場合に適用されます。
殺すつもりで殺したら殺人罪が適用されます。
地裁判決では「父親に殺意はあった」と認定しました。
裁判長は、次のように非難しました。
「中学受験の指導の名の下、長男の気持ちを顧みることなく自分の指導・指示に従うよう独善的な行為をエスカレートさせたあげく、衝動的に犯行に及んだ」
6人の裁判員たちが判決後に記者会見に応じ、そのうちの1人が次のように述べました。
「(今回の殺人事件は、学習指導が)一生懸命になりすぎた形。誰にでも起こることでは、と思った」
先ほど、教育虐待は学習指導の延長線上にある、と解説しましたが、裁判員も同じ感想を持ったようです。
教育虐待と学習指導は、厳格に区別されるべきです。
しかし実際は、この父親のような人物なら、学習指導と教育虐待の間にある垣根を簡単に越えてしまいます。
この裁判では、父親が抱えていた闇が明らかにされました。
勉強しない長男を殺したこの父親自身、自分の父親から刃物を向けられていたのです。
闇の正体
父親が抱えていた闇は漆黒で深いものでした。
事件の2日前、長男の太ももを包丁で刺していた
実の父親に殺害された小6の長男は、愛知県内の有名な私立中高一貫校を受験する予定でした。
――というより、強制的に、その中高一貫校に受験させられようとしていました。
父親は、元は子煩悩な親でした。
豹変したのは、亡くなった長男が小4のころでした。
長男が勉強しないと怒鳴り、暴力をふるい、脅していました。
長男が大切にしていたゲーム機を壊したこともありました。
それでも長男が勉強をしないと、父親はカッターナイフを持ち出して、勉強しろと脅しました。
それで長男が勉強したことから、父親はエスカレートしていきました。
カッターナイフがペティナイフになり、包丁になりました。
その包丁は、わざわざ長男を脅すために、父親が購入したものです。
殺人事件の8日前の2016年8月13日には、長男の額近くの頭髪がごっそりなくなっていました。
父親にやられたのです。
そして殺人事件の2日前の8月19日に、父親は車のなかで、包丁で長男の太ももを刺していました。
その様子はドライブレコーダーに録音されていて、父親は次のように言いながら犯行に及んでいました。
「書けって言ったら死ぬほど書け。オレが覚えろと言ったことはぜんぶ覚えればいい。てめえ大人を馬鹿にするなっつうのがわからんのか」
「オレ、刺すっていったはず。多少痛くてもがちゃがちゃうるせえ」
「脚ぐらいですむと思ったのか、糞ガキ。こんな怪我、なんなんだ」
ドライブレコーダーには、長男の悲鳴も録音されていました。
綿々と受け継がれた教育虐待
なぜ父親は、そうまでして長男を、名門中高一貫校に入れたかったのでしょうか。
父親も、父親の弟も、そして父親の父親(殺害された長男の祖父)も、その名門中高一貫校を卒業していたからです。
そして父親も、自分が子供のころ、自分の父親から包丁で脅されて勉強させられていました。
さらに、父親の父親(殺害された長男の曽祖父)も、自分の父親から厳しくしつけられ、勉強中に竹のモノサシで叩かれたりしていました。
教育虐待は、曽祖父から祖父へ、祖父から父親へ、そして父親から殺害された長男へと、綿々と受け継がれていったのです。
そして、祖父(長男の父親の父親)は、裁判のなかで、次のように答えています。
弁護人:被告人が持っていた包丁で長男が亡くなってしまいました。やり過ぎだったとは思いませんか。
祖父:中学受験生の親はそれほど必死になるものだから、やむを得ないと思います。
弁護人:被告人の社会復帰後どうサポートするつもりですか。
祖父:私も息子(殺害された長男の父親)も猟奇的なところがある。精神科医の先生にお世話になってしっかり治癒してほしいと思います。
検察:証人(祖父のこと)も被告人に対して刃物を向けたことがあるのですか。
祖父:あります。出刃包丁を持ち出して、息子と次男と妻のいる前で、こたつの天板の上に突き刺したことがあります。
祖父は、教育虐待による殺人事件を「やむを得ない」と考え、自ら猟奇的であることを認めています。
そして祖父も、包丁で息子(殺害された長男の父親)を脅して勉強させていました。
祖父は、教育虐待によって息子(殺害された長男の父親)を名門中高一貫校に入れることには成功しましたが、息子は大学に進学しませんでした。
息子は高校卒業後、飲食店や運送会社などを転々としました。
祖父は息子に、マンションを買い与え、孫(殺害された長男)の塾の費用を負担していました。
祖父は、法律上は長男殺害の共犯者ではありませんが、「長男殺害になんら関わっていない」とはいえないでしょう。
教育虐待は「保護者の未熟さ」から起きる
この記事で悲惨な事件を紹介したのは、教育虐待を二度と引き起こさない方法を考えたいからです。
最悪の事態の対策を考えれば、それは最も強固な対策になるので、それ以外の被害も防げるでしょう。
教育虐待は、一般的な児童虐待同様、撲滅しなければなりません。
そのためには「教育虐待は駄目なこと」と単純化して考えるのではなく、なぜ教育虐待が起きるのかを、深く考えなければならないでしょう。
なぜなら、裁判員(つまり一般市民)が指摘したとおり、教育虐待は「一生懸命になりすぎた形」であり、「誰にでも起こること」だからです。
教育の専門家は、教育虐待を起こす原因に、保護者の未熟さがあると指摘しています。
未熟さ1:子供を支配しようとする
教育虐待をする保護者は、子供を支配しようとする未熟さがあります。
人には少なからず支配欲があります。
犬を飼えば、犬を支配したいと思いますし、学校の部活で後輩ができれば、後輩を支配したくなりますし、会社に勤めて年月が経って部下ができれば、部下を支配したくなります。
それと同じように、保護者は子供を支配したがります。
しかし、実際に支配者のように振る舞う人は、精神的に未熟と言わざるをえないでしょう。
支配欲を抑えられないのは、「自分のほうが優れている」「自分は他人から尽くされて当然の人間だ」と強く思ってしまうからです。
当然ですが、そのように思うことは、思慮が足りません。
保護者が子供に対して「自分のほうが優れている」と考えたり、「保護者は子供から尽くされて当然だ」と思ったりすれば、すぐに「学習指導が多少逸脱することはやむを得ない」といった考えに到達してしまうでしょう。
そうなれば教育虐待への罪悪感が薄まってしまいます。
未熟さ2:自分がしてきたことを子供に押しつける
難関大学や有名大学を出て、それなりの企業や役所に就職した保護者で、なおかつ人間的に未熟だと、自分が歩んできた道こそ正義であると考え、子供にもまったく同じ道を歩ませようとします。
もちろん、子供がそのような親に憧れていれば、保護者が子供に「一流大学、一流企業に入るために勉強しなさい」と言っても、教育虐待になることはないでしょう。
しかし、高学歴かつ社会的に高い地位にいる保護者の子供ほど、保護者に反抗したくなります。
そして、高学歴かつ社会的に高い地位にいる保護者ほど、子供の反抗を受容できません。
教育虐待は、子供が反発するほど激しくなるので、子供の被害はより深刻になります。
未熟さ3:自分ができなかったことを子供に押しつける
中卒や高卒の、高学歴ではない保護者が、自分に自信が持てず、周囲の大卒の人たちに強いコンプレックスを抱いていると、自分の子供に対して、過度に「自分のようになるな」と思ってしまいます。
そして、自分のようにさせないためには、「高級教育」を受けさせるしかないと、視野が狭くなってしまいます。
このような保護者は子供に「自分は教育を受けさせてもらえなかった。高額な教育を受けられることをありがたく思え」と「正義の押し売り」をします。
高学歴を持たない保護者が、子供に高学歴を押しつけることも、高学歴の保護者が、子供に高学歴を押しつけることも、いずれの場合も思慮が浅いといわざるをえないでしょう。
高学歴こそ正義であり、高学歴者でしか幸せはつかめないと考えているからです。
そのように考えると、低学歴は悪であり、低学歴者は幸せをつかめない、という思考に陥ります。
そのような思考を持つと、教育虐待を正当化できてしまい非常に危険です。
保護者は自分の限界を知ろう
では、保護者は、何をすれば教育虐待を引き起こさずに済むのでしょうか。
まずは、自分の限界を知ることでしょう。
限界1:人を支配することはできない
自分の限界を知れば、人を支配しようと思わなくなります。
自分には人を支配するほどの能力はないとわかるからです。
支配とは、完全服従させることです。
もし、他人を幸せにする目的を持たずに、他人を支配すれば、それは犯罪行為です。
教育虐待をする保護者は、「私は子供の幸せを考えて、厳しく教育している」と言うでしょう。
つまり、子供(他人)を幸せにする目的で、子供(他人)を支配しているのだから、問題はない、と考えるわけです。
しかし、支配と被支配の関係から生まれるものは、横暴と被害しかありません。
それは、奴隷制度と同じで、日本国憲法は奴隷的拘束を禁じています。
支配・被支配の関係は単なる法律違反ではなく、日本で最も厳格に守らなければならない憲法に違反していることになります。
保護者が、例え我が子であっても「人を支配することはできない」と理解できれば、子供との間に信頼関係を築こうとするでしょう。
教育ではまず、教える側と教わる側に、信頼関係がなくてはなりません。
それは教師と子供の間だけでなく、親子間でも同じです。
限界2:完璧な教育は不可能
保護者は、自分は完璧な教育はできない、という限界を知りましょう。
尾木ママこと、教育評論家の尾木直樹氏ですら、子育てに失敗したと告白しています。
教育の専門家ですら我が子の教育に失敗するのだから、一般の保護者が教育に難航するのは当然です。
保護者が子供の教育方針を立て、それにしたがって教育を実行したとします。
子供がその教育に反抗したら、それは教育失敗です。
失敗したことを認めず、また、教育方針をあらためず、これまでとおりの教育を押し通すことこそ、支配・被支配の始まりであり「教育虐待のスタートライン」です。
子供が、保護者の教育を受け入れなかったら、教育方針を変えなければなりません。
そして、子供が反抗するたびに、保護者が教育方針を変更することで、「本当の教育」に近づくことができます。
完璧に教育ができる人が存在しない以上、失敗と改善を繰り返すしかありません。
限界3:保護者と子供の理想が一致するのは「運」
ごくまれに、保護者の厳しい学習指導を、子供が受け入れることがあります。
保護者が「いい大学に入れ、いい会社を目指せ」と言い、子供も「いい大学に入りたい、いい会社に絶対入る」と答えながら勉強することは、ゼロではありません。
しかしこのような親子は、たまたま運がよかっただけです。
親の教育がよかったからでも、子供が素直だからでもありません。
運がよかっただけです。
保護者の教育方針と子供の気持ちの一致を運と考えないと何が起こるのかというと、他の子供への差別になります。
例えば、長男は、親の言うことをきいて勉強に精を出し、成績も上々で、進学高に入学し、有名大学に入ったとします。
しかし次男は親に反抗し、勉強を放棄して、高校を中退してアルバイト生活を始めたとします。
長男の有名大学入学という実績から、保護者が「自分はちゃんとした教育ができる親だ」と思ってしまったら、次男は「失敗作」になってしまいます。
当然ですが、その考え方は間違っています。
長男は、運よく、保護者の教育方針と一致しただけです。
それは保護者の功績によるものではなく、長男の資質によるものです。
その長男は、どのような親を持っても、高学歴の獲得に注力したかもしれません。
そして保護者は、次男こそ、手厚くケアすべきでしょう。
保護者は次男に、なぜ高学歴を獲得する価値観に同意できないのか、しっかり話を聞いてください。
次男が大した考えもなく、学歴は不要だと言うのであれば、学歴の重要性をしっかり説明してあげてください。
次男がしっかりした考えを持ち、自分の道に進みたいと言っているのであれば、保護者はそれを応援してあげたほうがよいでしょう。
世の中を少し見渡しただけでも、高学歴なのに不幸な境遇に陥った人はたくさんいますし、高学歴がなくても幸せを手にしている人はたくさんいます。
保護者はまず、その現実を受け入れるべきです。
そうすれば、教育虐待をしないで済みます。
まとめ~子供の可能性を広げる方法を考えよう
自分の子供に高度な教育を受けさせることは、とてもよいことです。
高学歴を獲得することをすすめることも、よいことです。
しかし、保護者が子供を支配したうえで、高学歴の獲得を過剰に強要することは、単なる児童虐待です。
それが「教育のため」であろうと、社会で許容されることはないでしょう。
保護者が学歴を最優先に考えることは間違っていません。
しかし学歴以外の道を否定することは、間違っています。
それは子供の可能性を潰すことでしかないからです。
この記事を監修した人
「大成会」代表
池端 祐次
2013年「合同会社大成会」を設立し、代表を務める。学習塾の運営、教育コンサルティングを主な事業内容とし、札幌市区のチーム個別指導塾「大成会」を運営する。「完璧にできなくても、ただ成りたいものに成れるだけの勉強はできて欲しい。」をモットーに、これまで数多くの生徒さんを志望校の合格へと導いてきた。